結局昼食は冷や麦で済ませることにした。とは言っても、ハムに胡瓜、錦糸卵に味付けの肉…と具も一杯入れてあるから、昼食には十分なボリュームである。
昼食を終えると秋子さんは再び布団に戻り、眠りに就いた。これだけ寝ると言うことは、そうとう疲れて居るんだろうな。良かったよ…学校休んで秋子さんに付いていて。
それでも食べるものをちゃんと食べて体を休めていたのが効いたのか、夕御飯の時には布団から起きあがる仕草も、トイレに行くのでも今朝とは違い、ちゃんと動けていた。
それでも一応、夕食を終えると休むことを勧めると、秋子さんは素直に受け入れ、自分の部屋へと戻り早々に寝てしまったのだ。
バタン
ん？名雪の部屋のドアが閉まる音だ…。
秋子さんかな？オレは部屋を出て隣の部屋を見てみる。
すると名雪の部屋のドアが少し開いていて、部屋の灯りが廊下に漏れている。そっと開けてみると秋子さんが名雪のカバンを物色していた。どうもその様子は秋子さんではなく『名雪』がなにやら捜し物をしているようにも見えるが…。
一応、ノックをして声をかけることにした。
「秋子さん？」
「わっ…祐一。びっくりしたよ〜」
やっぱり『名雪』か…。
「こっそりと部屋に入ったりして、何していたんだ？」
「う〜ん。捜し物が終わったら祐一の部屋に行くから待っててくれる？」
「お…おぅ」
「えっと〜」
オレが部屋に戻ろうとすると『名雪』は頬に人差し指を当てて考え込んだ。そうだ、昼間買ったアレがあったっけ。
「名雪…」
「なに？」
「捜し物が終わったら、ダイニングに来てくれ」
「いいよ」
オレの部屋に持ってきても良いけど、びっくりさせたいんで、途中で見られてた何もならない。ここは面倒でも『名雪』にダイニングに来て貰うしかないのだ。ダイニングに入ると、秋子さんに見つからないように隠して置いたイチゴサンデーを出しやすい位置に置く。それと雰囲気を出すためにマスターから貰ったキャンドルをテーブルの横に置いて…と。
これで準備はＯＫ。後は『名雪』が来るのを待つだけだ。
捜し物が終わったのか、廊下から足音が聞こえる。
「ゆーいち？来たよ〜」
「おう、ちょっと暗いけど、我慢して名雪が座っていたところに来てくれ」
「うん…」
電気を消していたので少々歩きにくいが、それでも月明かりが照らしているし、『名雪』も体で覚えていたのか迷うことなくダイニングへとやってきて生前自分が座っていた席に着いた。
オレは手に持っているライターでキャンドルに火をつけた。ロウソク特有の暖かい光がダイニングを照らす。
「わぁ…百花屋のキャンドルだね」
さすが百花屋の常連名雪。一目で分かったか。でも、これだけじゃないんだよな。
「綺麗だね…また見られるなんて思わなかったよ」
「じゃぁ…これはどうだ！」
うっとりしながら『名雪』はキャンドルを見つめている。オレは『名雪』に見えないよう隠していた物をテーブルの上に置いた。そう一番のメインであるイチゴサンデーだ。
百花屋から持ち帰ることのできないイチゴサンデー。本来ならあるはずのない物に『名雪』は、きょとんとした表情でそれを見ていた。
「これ…ひょっとして百花屋のイチゴサンデー？」
「正真正銘、百花屋のイチゴサンデーだ。ただ、昼に作った物だから少し時間が経っているけど」
「ど、どうやって？」
「マスターに仏壇の前に上げたいって頼み込んだら、特別に許可を貰った。と言っても、持ってくるのは結構大変だったけどな。これを出前しない理由がよく分かったよ」
「祐一…ありがとう」
「いつもみたいにお代わりはできないけど、そこは勘弁して欲しい」
『名雪』は首を横に振って答えた。
「ううん。もう食べられないと思ったイチゴサンデーを食べられるんだもん。お代わりなんて言ったらバチが当たるよ」
オレはコーヒーを入れると、百花屋で座っていたように『名雪』の向かいに座った。
「よくこうやって学校帰りに百花屋に寄っていたね」
「あぁ…」
イチゴサンデーを口に入れたところで『名雪』の動きが止まり、目を伏せた。やっぱ時間が時間なんで、味が落ちてしまったか？そう思ったが『名雪』の頬に一筋の涙が走った。
「名雪？」
「ぐす…うれしい。また祐一とデートしているみたいで。それも一番のお気に入りの百花屋のイチゴサンデーを食べられるなんて…」
ハンカチ…は無かったから、オレは自分の指で『名雪』の涙をそっと拭った。
「さ、食べようぜ」
「うん…」
そう…名雪とデートするときは、どこに行こうとも最後には必ず百花屋に寄っていた。オレがコーヒー、名雪がイチゴサンデー。おきまりのメニューである。でも、今日のは少し違う。数多く訪れた百花屋であるが、一度だけ…閉店間際に行ったことがある。
そのときマスターは、店の電気を消してオレ達のテーブルの上にキャンドルを置いて明かりを灯したことがあった。
マスター曰く「恋人コース」だそうだ。
感極まって泣いていたが、次第に笑顔になってイチゴサンデーを食べてゆく『名雪』。全部食べ終えるとスプーンをグラスの中で一回回した。これが名雪のご馳走様の合図である。
「ご馳走様」
『名雪』は満面の笑みを浮かべる。
「祐一…ありがとう。覚えていてくれたんだね」
「なにが？」
「恋人コース」
「………。あぁ」
「本当に、本当にありがとう。嬉しくて…嬉しすぎて言葉が出ないよ」
再びうれし泣きをする『名雪』。良かった。喜んで貰えて良かった。オレは何も言わず、黙って『名雪』の涙を拭った。
「それじゃ、まだ時間があるから部屋に行くか」
オレの言葉に名雪は頷いて応える。いつも通りオレの部屋に戻ると、オレ達はいつものようにベッドの縁に並んで座った。部屋に来るまでに収まったのか『名雪』はもう泣いていない。
「なぁ…」
「なに？」
「さっき、何を探していたんだ？」
オレが質問をすると、恥ずかしそうな顔をして頬を赤らめる『名雪』。
「笑わないでくれる？」
「あぁ…」
おずおずとした表情で、カーディガンのポケットから一枚の紙を差し出した。
それを受け取ると一応断ってから開ける。
婚姻届？あ…しかもオレと名雪の名前入りじゃないか。こう言うの…イヤじゃないけど、なんか恥ずかしいな。
「これ…お母さんに見つかる前に処分しておこうと思って。もし見つかったらすごく恥ずかしいから」
なるほど…喩えはアレだが、オレがベッドの下に入れているアレな本が見つかれば恥ずかしいのと同じだ。
「わたしの夢…だったから。祐一のお嫁さんになるのは…」
夢…か。しかし、もう叶うことのない夢。ふと見ると、名雪の名前の所には押印されているが、オレの所にはない。当たり前と言えば当たり前であるが。
『だった』…か、そうだよな。今となっては……。
まてよ…。それなら、今なら…今だけなら叶えることは出来る。
「名雪…ちょっと、それ、いいか？」
「うん…何するの？」
オレは『名雪』から婚姻届を受け取ると、机に向かい引き出しを開けた。確かここに印鑑が入っていたはず。えっと〜あれ？
どこ行ったかな………。
あったあった。オレは自分の名前の所に印鑑を押した。確かに、これはもう役所に出せる書類ではない。だから正式な書類ではないが『今だけ』なら、これで名雪とオレは夫婦だ。
「祐一？」
オレの行動に『名雪』は不思議そうな顔をしている。
「悪い…これでオレ達は夫婦だ」
やはり、印鑑を押した書類を手渡すのは少し恥ずかしい。
オレの言葉の意味が分からず『名雪』はきょとんとした表情でオレから書類を受け取ったが、オレに預ける前との違いに気がつくと瞳を潤ませた。
「祐一…ハンコ押してくれたんだ」
「あぁ…」
「嬉しい…嬉しいよぉ〜」
『名雪』は印鑑の押された婚姻届を胸に抱きしめると、ポロポロ涙をこぼした。『名雪』の涙をそっと人差し指で拭っていると、ベッドの上に小さな箱を見つけた。おそらくカーディガンの右ポケットに入っていたのが落ちたのであろう。
「なんだこれ？」
思わずオレは、それを手に取る。それは小さな化粧箱だった。
「あっ…あれ？」
あわててカーディガンの右ポケットを探る『名雪』。しかしポケットには何も入ってなく、『名雪』は取り返そうとオレの方に手を伸ばしてきた。オレは『名雪』の手をかわすとその蓋を開けてみる。中には指輪が二つ入っていた。但しイミテーションの指輪であるが。
『名雪』の方へと振り返ると、真っ赤な顔をしてうつむいている。
なるほど…これが名雪の夢…ね。
「水瀬名雪」
「え？」
「あなたは、どんなときも相沢祐一を夫とすることを誓いますか？」
「えっ…？」
思いもしない展開に『名雪』は、半場惚けていたが、すぐに取り戻した。
「ダ…ダメだよ、これ以上は。返して…」
「答えなきゃ返さない」
「………祐一、意地悪だよぉ…」
これは、一押しだな。
そうか…。
「相沢祐一」
「ハイ」
「あなたは、どんなときも水瀬名雪を妻とすることを誓いますか？」
「誓います」
オレは神父と新郎を二役でこなすと、真面目な表情で『名雪』と向き合う。確かに『ごっこ』ではるが、ある意味、これはマジの結婚式だ。
「ダメだよ…嬉しいけど…嬉しいけど…。ごっこは終わりにしようよ」
「嬉しいなら誓ってくれ。悪いがオレはマジだ」
「え…」
潤んだ表情で上目遣いにオレのことを見る『名雪』。
やがてオレが本気なのを分かってくれたのか、少しの間目を伏せて考えた後、真剣な表情でオレと目を合わせた。
「今のわたしで、本当に後悔しない？」
「当たり前だ」
「誓います。祐一を夫とすることを誓います」
そう言うと、オレはそっと名雪の左手を取る。一瞬驚いた表情をしたが、手を引く素振りは見せなかったので、オレは箱の中から指輪をとりだして左手の薬指につけた。すると『名雪』は泣きながら手を差し出してきた。
「わたしも…祐一に指輪をつける」
「あぁ…」
オレは指輪の入った箱を渡すと同時に、『名雪』と同じく左手を差し出した。
感極まっているのか、なかなかオレに指輪をつけることが出来なかったが、それでも何とか指輪をつけ終えると、両手を顔に当てて泣きだしてしまった。
部屋に響く『名雪』の嗚咽。
「ひっく…ぐす…わたし…嬉しい…小さい頃からずっと…ずっと、祐一のお嫁さんになるのを、夢見ていたから」
『名雪』を泣きやませようと、オレは肩に手をかける。
すると『名雪』はビクッと体を振るわせて、オレの手を離した。
「ゴメン祐一…。これ以上は、お母さんの体だからダメ」
あ…そうか。普通の結婚式だったら、この後には誓いのキスがあるんだっけ。
「あ、いや。そう言うつもりじゃなかったんだが…悪い」
『名雪』オレの言葉に首を横に振って答える。
「そのかわり…祐一の肩にもたれかかって良い？」
「ああ…」
『名雪』は、倒れるようにオレの肩にもたれかかると小さくため息を付く。
「名雪…どうした？」
「ううん…ちょっと眠くなっちゃったから…」
「そうか…」
「祐一…今日はありがとう。本当に…本当に…ありが…」
名雪が自分の部屋に訪れてから一時間は経っていないのに『名雪』は寝てしまった。秋子さんの体が回復しきっていないためで、それが『名雪』にも移ってしまったからなのだろうか？
オレは『名雪』の体を抱きかかえて秋子さんの部屋に向かいながら思っていた。
『名雪』と会えるのも後二日。それまでにできることは何でもしてやりたい…と。
【第九話終わり】