Ｔｒｒｒｒ…Ｔｒｒｒｒ…
電話…か。名雪は遅くなるって言っていたから、秋子さんは帰っていないのかな？
しかし、鳴り続ける電話が家主不在の合図となる。
「はい…水瀬です」
「相沢君？」
電話の相手は香里だった。
「香里か？名雪ならまだ帰っていないが」
「名雪が交通事故にあったの、今すぐ市立総合病院に来て」
「は？」
オレは香里のいっていることが解らなかった。
そんな惚けているオレに苛立ったのか、電話口の香里の声が大きくなる。
「だから…名雪が道路に出た猫をかばって車に跳ねられて重傷なのよ！今すぐ来て！」
「分かった！」
オレは受話器を叩き付けるようにしておくと、すぐに家を飛び出した。
だが、折しも吹雪のために道路は大渋滞である。これならバスよりも走っていった方が早いくらいだ。オレは途中でバスを降りて病院に向けて走った。
そして受付で名雪の病室の場所を聞くと、靴についた雪で滑りそうになるのも構わず走り出した。名雪…今行くからな！名雪！待ってろよ！
そして病室に駆け込む。
そこには香里と秋子さんが居た。おそらく香里が学校に電話して秋子さんの仕事場に連絡を入れたのだろう。そして二人がすっと後ずさる。
うそ…だろ？
ベッドの上に寝ている人物は、顔に白い布をかぶっていた。
それが意味することは一つである…。
イヤだ…信じたくない。名雪が…名雪までも…。
だが、秋子さんがその布を取ると…その下には穏やかな名雪の寝顔があった。
「すぐ来てくれって言ったのに、なんで早く来ないのよ！」
「んなこと言ったって道路が渋滞していたし、オレだって急いで病院に来たんだ！それより、なんでこんな事になったんだよ…」
「それは…」
香里は半ベソをかきながらではあるが事情を話し始めた。
事の起こりはこうである。
香里と一緒に学校から帰っていた名雪は、木の枝に上って降りられなくなった子猫を見つけた。案の定それを助けようとするが、香里に止められる。木登りが出来ない上に猫アレルギーの名雪だからから止められて当然である。
だが、名雪は諦めなかった。猫のところに行こうとする名雪、それを止める香里。そんな二人の一進一退やり取りが続いたが、思いもしない展開になったのである。枝が細かったのか、子猫がいる枝がだんだんしなってきて、とうとう折れてしまった。
「あ…猫さん！」
猫が絡めばキャラクターが変わる…名雪に対する香里の言葉である。その言葉の通り、名雪は香里の制止を強引に振り払って車道に落下してくる子猫めがけて走った。
そして無事子猫を受け止めると安堵の表情をする名雪。
「名雪！車！」
香里の声で名雪が振り向くと自分にめがけて車が迫っているのが見えた。そこで名雪は初めて自分が車道に飛び出したことに気づく。運転手も急ブレーキをかけたが雪道なので簡単に止まれるわけがない。香里の呼びかけで名雪も車道から逃げようとしたし、その時点でなら名雪の運動神経で十分に回避可能であった。
「っくしゅん！」
しかし、猫アレルギーのくしゃみが名雪の動きを止めてしまったのである。
正直、その後の話は聞くに耐えない内容であった。
車に跳ねられた名雪の体は、それこそ漫画などでよく表現されているひも人形が飛ぶ姿そのものであったらしい。それでもそのまま地面に落ちれば体の打撲だけで問題はなかったはず…とのこと。しかし、運が悪いというか、名雪の向かう先には電柱があった。
猫を抱え込んでいるため、自分の行く先に電柱があるなど名雪が知る由もない。名雪の体は後頭部が電柱にぶつかったことで、ようやく地に着くことができた。
「バカっ！相沢君のバカっ！名雪…ずっとずっとあなたのこと呼んでいたのに…」
香里がオレに怒るが、香里らしくない行動だ。
オレは香里がなぜ怒るのかが分かったような気がする。きっと名雪を失った悲しみに、どう向き合って良いか分からないでいるんだろう…。
病院に向かう救急車の中で名雪はずっと猫のことを気にしていたらしい。いかにも名雪らしい行動と言える。
「香里…猫さんは…」
「大丈夫…」
「猫さん…大丈夫かな…」
「あなたが助けたから大丈夫だったわよ」
香里の応答に答えず猫のことを気にしている名雪。不安になった香里が救急隊員に尋ねると、後頭部を電柱にぶつけた際に脳内出血を起こしたことで、意識障害を起こしているらしいと言う返事であった。
「猫さん…猫さん…」
うわ言のように子猫のことを気にする名雪。そんな名雪を見ていられなくなった香里は、病院に到着するまで名雪の手を握っていた。
救急病院に到着してＣＴ等の検査室に運ばれる名雪だが、検査機器のモニタに映った状況はひどかったらしい。
「ドクター、これ…」
「あぁ…」
集中治療室から出てきた医者の表情は沈んでいた。
その雰囲気に不安になった香里が駆け寄る。
「先生！名雪は！名雪は!?」
「脳に相当の損傷があり、もう…」
「もう…って、まさか名雪このまま死んじゃうんですか？」
「………」
「手術…手術できないんですか？」
「手の施しようがないほど酷い状態なんです」
「…そんな。そんな」
それから香里は、余りのショックにどう秋子さんに連絡を付けたか覚えていなかった。それでもオレに連絡していたこと言うことだけは、どうにか覚えていたらしい。
医者に家族への連絡を終えた香里はその旨を告げると、ベッドに寝ている名雪の手をそっと握った。意識障害のせいか、名雪は風邪の時のような熱っぽい、とろんとした目つきで譫言を言っていた。
「祐一…」
「今、相沢君が来るから…」
「祐一…どこ？」
「今、秋子さんも来るから！」
「祐一…ごめん、眠くなっちゃった…。起こしてね…」
それが名雪の最期の言葉だった…。
そして名雪は…最愛の恋人に…最愛の母親に看取られることなく、親友のみに看取られながらこの世を去った。
「と、言うことなのよ…相沢君」
「うぅっ…名雪…」
「いやぁぁぁぁぁっ！なんで？何で名雪まで？」
秋子さんの嗚咽が引き金となり、香里は泣き出した。子供のように大きな声で泣いた…。妹を、そして親友を失った香里。真琴…そして名雪と、娘を二人失った秋子さん。オレは…あゆ、舞、佐祐理さん、真琴、栞…とたくさんの人を失っただけでなく、名雪という最愛の恋人も失ったのである…。
結局無言の帰宅をした名雪。真琴の死から立ち直りかけたとろへ、さらなる悲劇が水瀬家を襲った。
今まで二人で力を合わせて暮らしてきただけに、名雪の死は秋子さんに予想以上のショックを与えた。なぜなら、名雪の遺体が帰ってきてから秋子さんは、部屋が薄暗くなっているのにもかまわずに、ずっと名雪の隣に座っていたのだから。
「秋子さん、オレ部屋を出ていますから、どうぞ」
もちろん、思いっきり泣いてもらうためである。
だからといって素直に秋子さんが泣くとは思えないけど…。
「有り難うございます。うぅっ…」
案の定、秋子さんは俺が名雪の部屋を出ても声を押し殺していただけだった。
肝心のオレはと言うと…悲しいのは間違いない…ただ悲しすぎるのと、あまりに短期間の間に人の死に出会いすぎたので悲しみの感覚に麻痺してしまったのだ。
恋人の死に悲しめない…それが悲しい。
【第三話終わり】