昼休みのひとときに、教室の片隅で数人の生徒が仲良くおしゃべりをしていると言う光景はよく見られる。その中に、眼鏡をかけた女の子がいた。名前を保坂美由紀と言う。
美由紀は話に夢中になっていながらも、目の前にいる友人の桂子が自分のことをじっと見ていることに気が付いていたが、余りにもそれが長かったので美由紀は尋ねてみることにした。
「どうしたの？桂子？さっきから人の顔を黙ってみて…」
「てい。」
「きゃ…」
桂子は美由紀がかけている眼鏡のブリッジに指をかけ眼鏡を下げた。
眼鏡を下げられた瞬間、反射的に美由紀は後ずさり眼鏡をかけ直しながら桂子に抗議する。
「な、何するのよぉ。いきなり。」
「ふぅ〜ん、やっぱ、あんたそっちの方が可愛いわ。」
「はぁ？」
美由紀は桂子の言葉の意味が解らなかった。ところが、そんな困惑している美由紀をよそに、この会話を聞きつけた別のグループの生徒が美由紀達に話しかけてくる。
「そうそう。アタシも更衣室で見たんだけど、やっぱり美由紀の眼鏡外した顔って可愛いわよねぇ…女のアタシでもそう思ったんだモン。」
「えー？そんなのいつ見たのよぉ。」
「この間の体育の時間。」
美由紀は人前で眼鏡を外さない。体操着等に着替えるときも、なるべく外さないようにしている。
しかし、着替えづらい時はどうしても外さざるを得ないが、素早くかけてしまう。そんなわずかのことを見られているとは思いもしなかった美由紀は、思いもかけない事に対してつい声を上げてしまった。
「なになに？保坂がどうしたって？」
「あのね…」
「そうだよな…やっぱり」
そんなやりとりに近くにいた男子が加わり、辺りはちょっとした盛り上がりを見せてきた。予想を越えた盛り上がりに、美由紀の心に不安がよぎる。
「ねぇ…見てみたくない？」
「うん！」
「ちょ…ちょっと？みんな？」
美由紀の不安は的中した。美由紀の問いかけは耳に入らず、クラスメートの何名かが美由紀に迫ってくる。
そのただならぬ雰囲気に美由紀は恐怖すら感じてきた。
「いや…」
その恐怖に美由紀は一歩後ずさる。
「さぁ…」
美由紀が後ろに下がると同時に距離を詰めるクラスメート。
「あっ…」
背中に何か当たった感触がしたので振り向いてみると、ドアまで追いつめられてしまっていることに気づいた。逃げ場の無くなった焦りから、美由紀は身体が強ばってしまい、どうすることもできないでいる。
ガラッ
「きゃっ！」
他のクラスの生徒がドアを開けたらしく、その拍子に美由紀はバランスを崩してしまい廊下に尻餅を付いてしまった。その場にいた全員は数秒ほど何が起こったかが解らなかったが、いち早く正気に戻った美由紀は、とりあえずその場から離れることにした。
（ふぅ…。みんな、一体どうしたの？）
適当な曲がり角に飛び込み一休みしながら額の汗を拭っていた後、曲がり角から顔だけ出して辺りの様子をうかがってみると、クラスメートの何名かが美由紀に向かって走ってくるのが見えた。
「ちょ…ちょっと。もぅ、いい加減にしてよねっ。」
そうつぶやきながら美由紀はその場を離れる。Ｔ字路にさしかかり、数秒迷った後左へ曲がり階段を駆け下りる。下の階に到着すると隠れられそうな場所を探したが、トイレくらいしか見あたらなかったのでとりあえずそこに逃げ込んだ。
（はぁ…はぁ…。もう何なの？一体？）
ドタドタドタ…
「どこへ消えた？」
「そこのトイレは？」
ドキリと美由紀の胸が高鳴る。
「幾ら何でも、そんな、いかにも隠れていますって言うところにはいないだろ？」
「だな、よし！二手に分かれよう」
「ＯＫ！」
美由紀を見失ったクラスメートは二手に分かれて探すことにしたらしい。美由紀は人の気配が無くなった頃合いを見計らってトイレから出た。
しかし、トイレを出てすぐの横の十字路にさしかかったとき、美由紀はいきなり左手を掴まれて羽交い締めにされてしまう。
「あっ、桂子。」
「へっへぇ〜。捕まえた。美由紀を捕まえたよぉ〜。」
「ちょ、ちょっと…やめて、放して。」
「往生際が悪いぞ。」
「往生際って、理不尽なこと言わないで頂戴。」
美由紀は桂子の羽交い締めから必死でもがくが、身動きがとれない。桂子の声により、近くにいた何人かのクラスメートが駆け寄ってくる。
「おっ、捕まえたか。」
「高橋君、今の内に美由紀の眼鏡取っちゃって。」
「おう。」
「ねぇ…やめってたら。お願い…、お願いだから…」
美由紀の眼鏡を外そうとする魔の手が近づいてくる。美由紀は眼鏡を取られまいと顔を逸らすが、桂子の手によって戻されてしまう。迫り来る魔の手の恐怖が最大になる瞬間、パニックのあまり暴れ出してしまった。
「ヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダヤダ…いやだったら、いや！」
「はぅっ！」
美由紀に迫っていた魔の手が止まった。だが、そこにいた人々は、一体なにが起こったのかが解らなかった。美由紀を羽交い締めにしていた桂子が声をかける。
「高橋君、どうしたの？はやくぅ。」
「………」
「あぁ！？」
男子生徒からは声は帰ってこない。桂子からの驚きの声に美由紀が我を取り戻すと、眼鏡を外そうとした生徒の股間を蹴り上げている自分の足がみえた。
「あ、痛そー。」
（手がゆるんだ。チャンス！）
「あっ！しまった。みんなー、美由紀を逃がすなー！」
美由紀を羽交い締めしていた桂子が男の子の様子をうかがおうとして羽交い締めの力を緩めた。思いがけない隙に、美由紀は身体をくねらせ、羽交い締めから抜け出し再び逃走し、再び階段を駆け下りる。
「保坂がいたぞー！」
階段を駆け下りると、正面から追ってがやってきた。あわてて左を見るが同じである。先ほどの連中も階段を下りてきている。右手は壁なので、まさに四面楚歌、絶体絶命の状況である。あわてて周りをきょろきょろ見回すと、ゴミ収集用のダストカートの群と用務員の姿が目に入った。
「用務員のおじさん、ちょっと借ります。ゴメンなさぁい！」
「えい！えいっ！」
美由紀はダストカートを引っ張り、正面と左手から迫ってくる追っ手に対してダストカートを勢い良く蹴りだした。それと同時に、
「ゴメンナサイついでに、これも借りまぁす！」
と叫びながら、左手から迫っている追っ手に向かって荷物運搬用の代車を押しながら走り出し、トロッコのように乗り、転ばないようにしゃがんだ姿勢で強行突破を掛けた。美由紀がいたところは、校舎間の移動通路で少々くだり坂になっているのでこの様な行動をとれるのだ。
正面からの追っ手は美由紀との距離が比較的近かったうえ、盲目的に突っ込んできたので、美由紀が発射したダストカートを避けることが出来なく、モロにぶつかってしまい、ダストカートの中に頭から突っ込んだまま壁にぶつかって撃沈した。
「どかないと、怪我するわよぉ〜」
だが、もう一方の追っ手は距離があったおかげでなんとかダストカートを避けることが出来たが、まさか美由紀が台車に乗って強行突破を仕掛けてくるとは夢にも思わず、台車が勢いよく迫ってくると蜘蛛の子を散らすように逃げた。
「おっと！そっとを頼む！」
「おっけぇ！」
「えっ？…きゃっ、きゃっ、きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ！」
しかし、すれ違い様に両側にいた男の子二人が果敢にも台車の押手をつかんで台車を止めた。…のは良いのだが、台車を止めた反動により、美由紀は押手の隙間からしゃがんだままの姿勢で台車から飛び出してしまったのである。
台車のスピードは結構な勢いだったので、台車から飛び出した美由紀は、三度尻餅を付いただけでは収まらず、先ほど蹴りだしたのち壁にあたって転がってたダストカート向かって頭からダイビングしてようやく止まることが出来た。
余りの出来事に、その場にいた人全員が動けないでいる。
「あ、イタタタ…。はっ！み…見てないでしょうね？」
美由紀は四つん這いになりながらお尻をさすっていたのだが、すぐに後ろ手でスカートを押さえて立ち上がり男の子達の方を睨む。
「いやいや」
「白（ボソ」
「えっち！」
スコーン
大半の男子は首を横に振ったが（本当はダイビングした際に見えたのだが）、よせばいい物をその中の一人が正直につぶやいてしまい、美由紀の投げた空き缶がもろに額にあたりその場に沈んだ。
「ん？んなことしてる場合じゃねーだろ。保坂を捕まえるんだよ！」
「あぁっ！そうだった。」
「いっけなーい！」
皆が我に返ると、またもや追跡劇が再開される。結局、美由紀は昼休み中逃げ回り、教室に戻ったのは５時間目のチャイムが鳴るのと同時だった。
どうやら昼休み一時の熱だったらしく、それ以後、美由紀の眼鏡（素顔）は狙われなかった。