ロムレットの壁時計は、もうすぐ午後九時に差し掛かろうとしていた。そろそろ閉店の時間である。最後のお客が店を出るのを確認するとマスターは「CLOSED」のプレートをドアに掛けた。

「それじゃ、今日はこれくらいにしようか。」
「ハイ、マスター。お疲れさまでした。」
「お疲れさま。どう？初日の感想は…」
「そうですね、やっぱり初めてだから大変です。」
「永倉さん、筋が良いから慣れれば大丈夫だと思うよ。何か判らないことがあれば乃絵美に聞いてね。乃絵美、後は正樹と永倉さんと三人に任せて良いかな？」
「はい。」

　えみるはなんとか無事に初日のバイトを終えることが出来た。店内の後から付けを終え、乃絵美と一緒に更衣室で着替える。服を着替え終え、バイトしているときは、ほどいていたおさげを戻しているときに乃絵美が声をかけてきた。

「永倉さん、お下げをほどかせてごめんなさいね。」
「ううん、別に構わないよ。」

　強制ではないが、えみるにお下げをほどく様声をかけたのは、髪飾りの輪ゴムが切れたときの事を考えてのことである。
　それを言うなら乃絵美のポニーテールを結んでいるリボンも同じ様な物であるがリボンはほどける前兆が比較的つかみやすいのに対し、えみるのお下げを止めている髪飾りの輪ゴムは、突然切れてどこへ行ってしまうか分からないからだ。

「これでよし…っと。それじゃ乃絵美ちゃん、失礼します。」
「ハイ、お疲れ様でした。」

　えみるは自宅に戻ると自分の部屋でふさぎ込み、電話の前でなにやら考え込んでいた。

（どうしよう…。ロムレットのバイトのこと明日香ちゃんに言った方が良いのかなぁ…。黙っていたってよけい悪いばかりだし…。でも、どんな顔して言えばいいの？）

Trrrrr…、Trrrrr…、

「はい、永倉です。」
「やっほー！アタシ、明日香ちゃんだよん。」

　ドキン！電話の相手が明日香と判った途端えみるの胸が高鳴る。
　えみるはバイトのことでの動揺を出さないよう、慎重になった。

「明日香ちゃん、どうしたの？」
「ちょっとさぁ、情報を仕入れたんでね。」
「なぁに？」

　いつものように明るい口調で話す明日香に、えみるは少しだけ警戒心を解く。
　しかし次の瞬間…

「アンタ、ロムレットでバイトしてるってホント？」

　明日香は、先ほどの明るい口調とはうって変わった、冷ややかな口調で追求をしてきたのである。
　刹那、えみるは顔から血の気が引いて行くのが、はっきりと感じられた。

「あ、あの、その、これは、えっと…」
「……………」

　いきなり核心をつかれ、動揺するえみるに対して、無反応でいる明日香。

「ふ〜ん、やっぱりそうだったんだ。友達が髪を下ろしてるけど、えみるにそっくりな人がバイトしているって言ったんだけど、まさかホントにえみるだったとはね…」
「……………」
「ねぇ…」
「な、なに？」
「アタシがロムレットでバイトしたがってた事は知っているよね？」
「う…うん…」
「で、バイト募集があったら真っ先に教えてね…って頼んでいたよね？」
「う…うん…」
「じゃぁ、なんでバイト募集があることを教えてくれなかったの？」

　明日香の言葉は確実にえみるを追いつめてる。また、えみるにとっては一番痛い部分を攻められているのであった。

「そ、それは…バイトの募集があったんじゃなくて…」
「あったんじゃなければ、なんなのさ？」
「それは…その…」

　確かにロムレットのバイト募集は行われていない。えみるはロムレットのバイトを紹介してもらったのだ。かといって、この事を明日香に話しても意味をなさないばかりか、逆に明日香の怒りを買いかねない。
　そう判断したえみるは、どう説明して良いか判らず次の言葉を探していた。

　明日香は、これ以上問いつめても埒があかないと判断したのか、質問の内容を変える。

「まぁ…アンタがどこでバイトしようが、それはそれで自由だけどね。それより、アンタ今までバイトしていなかったよね？何か急に欲しい物でも出来たの？」
「う…うん…」
「なに？」
「…………」

　まさか、プレゼントする相手に「あなたのプレゼントを買うため」と言うわけにもゆかず、えみるはまたもや黙っているしかなかった。

「まぁ、いいや。ところで、バイトっていつまでしているの？」
「一ヶ月ほど、バイトの日は日曜日と、水曜日と、金曜日」
「ふ〜ん、アタシのシフトと同じなんだ。ま、その内ロムレットに寄らせてもらうね。それじゃ。」

　ツーッ、ツーッ、ツーッ、

　一方的に電話が切られ、後に残ったのは無機質な通話音だけである。えみるは明日香のいつもと違う冷たい口調に、自分に対する怒りをひしひしと感じてた。

（明日香ちゃん怒ってる…。どーしよー…）

　それから２，３日後、えみるがロムレットでバイトしていると、見慣れた清華女子の制服を来た三人組がロムレットにやってくるのが見えた。その中の一人は明日香である。

　えみるは明日香達が席に着くのを確認すると、オーダーを取りに行った。

「いらっしゃいませ、ご注文は何にいたしましょうか？」

　三人はメニューを見て考えている。

「あ、明日香ちゃん、来てくれてありがとりゅん…」
「まぁね…。アタシ、フルーツパフェと、アイスティと、ナポリタン。」
「ちょ、ちょっと明日香、そんなに食べるの？」
「うん、食べるよ。」
「はぁ…私にはマネできないわ…」

　明日香のオーダーの多さに、思わず苦笑いをしてしまう友人。

「アタシ、オレンジシャーベットでいいわ。」
「アタシも…」
「畏まりました。フルーツパフェ１つ、アイスティ１つ、ナポリタン１つ、オレンジシャーベット２つ。以上で間違いは御座いませんでしょうか？」

　明日香達三人は無言で頷く。

「有り難うござます。それでは少々お待ち下さい。」

　えみるは、オーダーをメモすると厨房に向かう。

（明日香ちゃん……………）
　明日香の冷たい態度に、えみるは困惑してた。

「永倉さん、３番テーブルのオーダーできたよ。」
「は、はい。」
「あ、永倉さん、そんなにいっぱい大丈夫ですか？手伝いますよ。」
「う…うん、大丈夫、乃絵美ちゃん。」

　えみるは乃絵美に強がって見せるが、トレイを持つ手はふらついていた。

（よいしょっと…おっとと）

「お、お待たせしました。」

　オレンジシャーベット、アイスティ、ナポリタンと次々オーダーの品を載せて行くが、トレイから品物を取り出す度、トレイを持つ手が揺れてしまい、何とも危なげな雰囲気である。
　それを見かねたのか、明日香がきつい口調で声を上げる。

「あの〜、こぼされちゃたまんないから言うけど、トレイに物を載せるときにはもうちょっと考えて載せてよね。だからそんなに手元がふらつくんだよ。」
「あ、はい。」
「それと、トレイの持ち方が全然なってないよ。そう言うときには、手のひらだけじゃなくて、腕全体に載せるの。判った？」
「は、はい。ご指摘ありがとうございます。以後気を付けます。え、えっと、ご注文の品は全部そろいましたでしょうか？」

　明日香達三人は無言で頷く。

「それでは、ごゆっくりどうぞ…」

　えみるがテーブルから十分離れた頃を見計らい、友人の一人が明日香に声をかける。

「ねぇ、明日香ぁ…。幾ら何でもあれはないんじゃない？」
「だって、ホントのことじゃん。」
「だけどさぁ、もうちょっと物の言い方ってあるんじゃない？彼女が最初に声をかけてくれたときだってさぁ、変に不愛想だったし…。」
「そういえば、高さ重心全くバラバラの品物ばかり注文したけど、アンタひょっとしてまさか…」

　もう一人の友人の問いに対しても明日香は何も答えずに黙って食べ続けている。
二人の友人も、そんな明日香を見て「仕方がないなぁ」と黙り込むしかなかった。

　それから２，３日後の萬屋活動の日。いつもの時間に明日香がやってくるが、明日香の表情は不機嫌そうである。

「明日香ちゃん、こんにち…」
「ハイ、依頼ノート。今回は占いだけだから。」
「分かったりゅん…。あ、あのね、明日香ちゃ…」
「それから、この間の迷い犬探しの件なんだけど、北方面に逃げたことまでは突き止めたから、それから先の指示お願い。」
「う…うん。」

　明日香の状態は、まさに「取り付く島がない」である。それに落ち込んでも居る訳にもいかないので、えみるは占いを始める。
　占いの結果をすべてノートに書き終えた後、迷い犬探しのことを占う。

「えっと…作りかけの中？建物…。あ、ビルか何かの工事現場に迷い込んでるのかも…。」
「わかった…工事現場…特に建設物関係だね。多分、現場の事務所当たりに保護されてるのかな？見てみるわ…。それじゃ、又今度ね。」

　えみるの占いの結果をメモ帳に記入し終わると、無機質な挨拶をしたのち、明日香は煙草屋を後にした。えみるは明日香の冷たい態度に何も言うことが出来ずただ肩を落とすだけであった。

　それから数日後、明日香が再びロムレットに姿を見せたのである。

「明日香ちゃん、いらしゃいませ。」
「えっとね…ホットロイヤルミルクティーアッサムと、スペシャルハニーレモンパイに…あ、あとハムチーズトーストセットお願いね。」
「畏まりました。えっと…ホットロイヤルミルクティーアッサム一つ…と…」

　えみるがオーダーを伝票に記入するのに手間取っていると、それを見かねたのか明日香の指摘が飛ぶ。

「メニューの略くらい、乃絵美ちゃんに聞いて覚えておきなさいよね…まったく」
「は…はい。」

　それからと言うものの、明日香はえみるがバイトしているときには必ず店に現れて「お客のお冷やの切れ具合のチェックが甘い」や「店に入ってくるお客は常に見ていて、オーダーの取りこぼしをしない」等、えみるの不手際を厳しく指摘していった。

　明日香の指摘が続く中、肩を落として溜息をつくえみるに乃絵美が声をかけた。

「永倉さん、星野さんと何かありまして？最近の二人の様子ヘンだから…」
「えっ？そ、そんなこと無いよ？あ、お客様だ。私行って来るね」

　オーダーを取りに行くえみるを見つめながら乃絵美はつぶやく。

「永倉さん、ああは言っているけど一体どうしたんだろう？星野さん、なんか意地悪してる様に見えるけど…？」

　そんな乃絵美の独り言にマスターが声をかける。

「乃絵美、本当に星野さんが意地悪をしてると思うかい？」
「だって…」
「少しの間、ここで永倉さんを見てみなさい。」

　マスターにそう言われ、乃絵美は黙って店内を見回す。
　いつもと変わらぬロムレット店内を移動するえみる。だが、乃絵美の目に映ったえみるの動きは当初のぎこちない動きとは違い、乃絵美の見覚えのある動きだった。

「あ、そう言えば、私と同じ動き…。」
「だろ？」
「私、そんなに教えていないのに、こんな短期間で誰にも教わらずにいったいどうやって……」

　マスターは乃絵美の疑問解消に助け船を出す。

「星野さんは、一見意地悪をしているように見えたけど、実は永倉さんの欠点を正していたんだよ。」

　いきなりそう言われても、なぜ意地悪風にアドバイスをするのかが乃絵美には解らない。

「じゃぁ、星野さんはなぜあんな風に？」
「多分、悔しさの感情をうまく押し殺せないから、ああ言う表現になっちゃったんだろうね。」
「悔しさ…？」

　マスターは乃絵美の質問に対して返事はせず、一呼吸おいてから思い出すように語り始めた。

「正樹一人で店番をしているときだったんだけど、星野さんがバイトの売り込みに来たことがあってね。履歴書の経歴だけを見た正樹は、星野さんがバイトを転々としているのは"クビになったから"と判断して星野さんのバイトを断ったんだ。もっともそのころは菜織ちゃんが居たからバイトの空き自体もなかったんだけど。」
「そんなことがあったなんて知らなかった…」

　マスターは、さらに話を続ける。

「色々なところから聞くところによると、実はバイト先での評判は悪くはないんだよ。ついでに星野さんがバイトを転々としている理由が、可愛い制服をねらっているから…と言うのも解ったし。
　だから、永倉さんが自分より先にここでバイトできたことに悔しさを感じているのじゃないのかな？「アタシが狙っていたのにぃ〜」…ってな感じで。まぁ、星野さんが本当に永倉さんのことを嫌っているのならもっと悪質な事をするし、それ以前に店には来ないと思うよ。永倉さんもその辺は気づいているようだし、星野さんの忠告をちゃんと実践して一通りのことは身につけた様だから、星野さんも、もう黙っているしかないんじゃないかな？」

　その後も明日香はロムレットに何度か現れてえみるの様子をうかがっていたが、指摘する欠点が見つからなくなったのか、マスターの言うようにえみるに対して何も言わず、頬杖を付きながら不機嫌そうな顔をして黙ってジュースを飲むだけだった。

（バイトを始めて約半月か…。えみる、飲み込みが早いな…。もう言うこと無くなっちゃったか…）

【第36話終わり】