オレが軽率だった。
名雪の言葉通りＨなんかしなければ良かった。
せっかく秋子さんとの関係が壊れずに済んだと思ったのに…。
最悪の結果になってしまった。
私の中に芽生えた小さな命。
いずれ水瀬家を去って行く祐一さん。
この子だけが私の家族…。
けど、この子は…。
＊ ＊ ＊
公園で会った…と言うのは少し違うかもしれないが、オレ達は二人で水瀬家に戻った。だけど帰り道、オレ達は言葉を交わすことはなかった。
お互いなんて言って良いか分からないからだ。
家に戻ると、着替えにお互い自分の部屋に戻る。そして気が付けばオレ達はリビングに集まっていた。
秋子さん…額に手を当てながら考え込んでいるよ。
「あ…秋子さん…」
「気にしなくて良いですから」
気にするなって言ったって、オレの身勝手で秋子さんに迷惑をかけて気にしないわけには行かない。しかし…オレにはどうすることもできないのも事実である。くそっ…。
Ｔｒｒｒ…
電話かよ。この忙しいときに誰だ？オレは立ち上がろうとする秋子さんを手で制して居間にある電話に向かった。
「はい、水瀬ですが」
『祐一？私…元気にしてた？』
「母さん？」
電話の相手は海外にいる母さんだ。そう言えば、仕事の都合で名雪の葬式には来ることができなかったっけ。それかな？
『大変だったね…』
「あぁ…」
『悪いけど、秋子に代わって貰える？』
先ほどの公園の件があるので、オレは一瞬胸が高鳴った。いや…まさか秋子さんも言うわけはないだろう。オレは緊張しつつも秋子さんを呼びに行くことにした。
「ちょっと待っててね」
電話機の保留ボタンを押してリビングへ向かう。しかし…何で今頃母さんは電話をかけてきたんだろう。リビングでは先ほどと同じく秋子さんがソファの上で考え込んでいる。声をかけにくい雰囲気だけど仕方がない。
「秋子さん…電話です」
「すみません。どなたからですか？」
「母さんです」
電話の相手が母さんであるのを知った秋子さんの顔に緊張が走る。そしてゆっくりとオレの方を向くと、大丈夫…と言って居間へと向かった。オレは秋子さんに悪いと思いつつ、ダイニングの入り口で聞き耳を立てた。
「秋子です」
『秋子？久しぶり。祐一が世話になっているね』
「いいえ、祐一さんには助けられています」
『そう…名雪ちゃんのこと。大変だったね』
「うん…でも、もう大丈夫」
『あ、そうそう。葬式に行けなかったから…というのもあるけど、電話じゃなんだし、ちょっと秋子の所に顔を出しに日本に戻るわ』
「えっ？姉さん、こっちに来るって…」
『うん、明後日…かな。とりあえず日本に着いたらまっすぐそっちに向かうから』
「もしもし？もしもし？」
どうやら母さんは話し終えると強引に電話を切ったようだ。
母さんが日本に来る？よりによってこんな時にかよ。非常にまずい。母さん…秋子さんより勘が鋭いからな。このことが母さんにしれたら…。
電話を終えた秋子さんがリビングに戻ってくる。オレはあわててソファに戻った。
「電話…どうでした？」
「明後日…姉さんがこっちに来るそうです」
「えっ…」
「私達が黙っていれば、わかりませんから。祐一さん、呉々も姉さんの前で素振りは見せないよう、お願いします」
「は…はい」
明後日か…。
ピンポーン。
電話から二日後、予定通り母さんが日本に到着した。
秋子さんが玄関に出迎えに行く。
「は〜い」
「こんにちは〜。急に来て済まないね」
「ううん…。あがって」
「それでは、おじゃまします」
母さんは秋子さんにお土産を渡すと、名雪に焼香するためにまっすぐ客間へと向かう。名雪と一緒に並んでいる真琴の遺影に少し驚いた様だが、香里と同じく真琴にも焼香してくれた。
「ありがとう。これからどうするの？」
「明日でないと飛行機がないのよね。悪いけど泊めてもらえる？」
「いいわ」
明日母さんが帰るまで…か。それまでなんとしても母さんに知られないようにしないと。
「祐一さん、済みませんが買い物お願いできますでしょうか？」
「えぇ…。じゃぁ」
秋子さんはメモに色々買い出しの材料を書いている。いつもなら好きな物を買ってくる様言われるが、きっと母さんの好物を作るのだろう。
オレはメモと財布を受け取ると客間を後にした。だが、客間から出る瞬間秋子さんのうめき声が聞こえた。
つわり…。昨日の洗面所でのことを思い出したオレは反射的に振り向いて秋子さんの側に駆け寄った。
「秋子さん！」
秋子さんは口に手を当てながらしゃがみ込んでいた。やっぱり、つわりか。オレは秋子さんの背中を優しくさすった。
「秋子…どうしたの？」
「なんでもない…です」
秋子さんが母さんに見えないよう、オレの手を握る。そう…迂闊なことはするなと言いたそうに。その意図を理解したオレは、とっさに嘘をついた。
「もう…なんでもないなら、びっくりさせないでくださいよ」
「ごめんなさい。ちょっと疲れているのかも」
「祐一、気をつけてね。秋子は倒れるまで無理をするから」
とりあえずあまり居ても怪しまれるので、後は母さんに任せて買い物に向かうことにした。
＊ ＊ ＊
名雪達に焼香しに来てくれた姉さん。客間には名雪達が居るので、結局私の部屋で一緒に寝ることになった。姉さんと一緒に寝るなんて小学生以来かしら。
「ねぇ秋子。名雪ちゃんが死んで辛いのは分かる。一応私も親だし。でもね…世の中には許されることと許されないことがあるのは、貴方は知っているわよね？」
姉さん…なにを？
「姉さん…なにが？」
「あなた妊娠してるでしょう？昼間は上手く誤魔化したみたいだけどダメよ…。食事の時のあなたを見ていたら、すぐに分かったわ」
「………」
「それに…その子の父親が誰であるかも…ね」
「姉さん、根拠も無しに…」
「根拠？あるわよ。食事の時、作るのも食べるのも辛そうだったわね。…特に肉類が。けど、不思議とサラダとかあっさりした物の時にはそんな素振りは全然なく至って普通だった。そう、私も全く同じ経験があるから分かったわ。これが貴方が妊娠してると思った理由」
そこまで言うと、姉さんは一旦言葉を切った。確かに姉さんの言うとおり、つわりで辛かったのは間違いない。けど…。
「それと父親の件だけど、最初は私も信じられなかった。身持ちの堅い秋子だから、今更再婚とか、いい男性（ひと）を見つけるとは思えない。そんなんだったら十七年間一人で居ないからね。でもね、祐一の行動で一つの考えに辿り着いたの」
姉さんは当たりをつけてきている。
「貴方がつわりを起こしたとき凄く早く反応したから。それだけ…じゃないわよ。そのとき祐一、何も聞かずに何も言わずに秋子の背中をさすったわよね。それは秋子の容態を知っていると言うことなるのよ。それなのに二人とも隠す素振りを見せていた。どうして隠す必要があるのかしらね」
「………」
「答えは一つ。あなたと祐一が…だから。どう…間違っている？」
姉さんの言葉には反論の余地もあったし、思いこみと言って誤魔化すこともできた。でも、何も言えなかった…。
しばらく私の言葉を待っていた姉さんだけど、諦めたように呟いた。
「あなたの嘘のつけない性格…相変わらずね」
私が何も答えないこと言うことは姉さんの言葉を認めていることになる。そう、嘘をつけば良かった。私が祐一さんに言ったように、そんな素振りは見せないようにして…。
祐一さん…ごめんなさい。せめて…。
「姉さん…祐一さんは悪くない。私が…一人で居るのが寂しかったから…私の方から…」
姉さんは深いため息を付くと、そっと私の手を取り、優しい言葉と無情な言葉を私に告げた。
「秋子…辛かったでしょう。貴方にとって名雪ちゃんは、ホント生き甲斐だったものね。気持ちは分かるけど、ごめんなさい。今の貴方には辛いと思うけど、しばらく祐一とは距離を置いた方がいいと思うの。明日、祐一を連れてゆくわね」
姉さんの言葉に、私は何も言うことが出来なかった。
＊ ＊ ＊
「おはようございます」
朝起きてダイニングに向かうと、秋子さんは椅子に座ってうなだれていた。向かいには母さんが座っている。まるで姉に怒られている妹…そんな二人だった。
まさか…ね。
「姉さん、どうしてもダメ？」
「秋子の気持ちは分からないではないけど、少しの間だけだから。分かって…秋子」
「……はい」
そして秋子さんの返事を聞いた母さんは、椅子から立ち上がり黙ってオレの前に来るといきなり右頬を思いっきり叩いた。
「何で叩かれたかは…分かるわよね？」
まさか…母さん、秋子さんとオレののことに気づいた？そうだ…だから秋子さんは、うなだれているんだ。
「まったく…いくら秋子が誘ってきたからって…」
秋子さんが誘ってきた？違う。思わず母さんの言葉に反応してしまった。
「母さん、ちがう…。秋子さんからじゃなくて…」
ハッと思ったときには遅かった。握り拳が見えたと思ったら、オレは殴られた勢いで転んでいた。
「祐一、それ…どう言うこと？まさかあなたの方から秋子を？」
しまった…。秋子さんはオレのことをかばったんだ。自分の体を名雪の魂に貸して、オレと名雪をＨさせた…と言っても信じられないから。オレは自分の迂闊さを呪った。
「姉さん！違う…祐一さんは私をかばってくれてるの。昨日言ったように、私が…私の方から…」
オレと母さんのやりとりに見かねた秋子さんがオレの側に駆け寄ってきた。しばらくオレ達を見つめていた母さんだが、フッ…とため息を付くと、オレの手を強引に引っ張り上げる。
「この分じゃ、同じ過ちを起こさないとは限らないわ。悪いけど、祐一、頭を冷やすためにしばらく離れてもらうわね」
「そ…そんな」
結局オレは母さんに連れられ、無理矢理水瀬家から出ることになった。母さんはオレに逃げられないよう、しっかりハンカチで手をつないでいる。
秋子さん…大丈夫かな…オレをかばって、自分一人悪者になって…。駅までの道のりを歩いていると、近くの家の庭から子供の泣き声が聞こえてきた。
「うさぎさん…どうしてしんじゃったの？」
「うさぎさんね…一緒に暮らしていたウサギさんが死んじゃって、ひとりぼっちで寂しくなって死んじゃったのよ」
その親子のやりとりになぜかオレの目は釘付けになる。
そして…なぜかそのウサギの親子と名雪と秋子さんがダブってしまった。
「祐一…何しているの？」
「母さん…」
「何？」
「ごめん！」
気が付くとオレはハンカチを引き裂いて母さんの手を振りきって走り出していた。なぜか凄い嫌な予感がする…。頼むから…頼むから…。
水瀬家に戻り、玄関のドアを開けようとしたがなぜか鍵がかかっていた。そう…秋子さんは、真琴達が帰ってくるような気がするから、日中は必ず鍵を開けていると言っていたのに…。 オレは一階のベランダに回った。くそ…ここも鍵がかかっている。秋子さん…ごめん！手元にあった大きめの石でサッシのガラスを割って、鍵を開ける。
「秋子さん！秋子さん！」
秋子さんの名前を叫びながら居間に向かって駆けだした。しかし、居間には誰もいない。ちがう…客間だ。秋子さんが居るとしたらそこしかない！
「秋子さん！」
けど、予想に反して客間にも秋子さんは居なかった。
ふとダイニングを見ると、なぜか凄く綺麗になっているのが気にかかる。ふとゴミ箱の蓋からウイスキーのボトル口が出ているのが見えた。変だな…秋子さんお酒なんて飲まないし…。中を覗くと、小さい瓶が一緒に入っていた。
オレはダイニングを後にすると、秋子さんの部屋に向かって走り出した。そしてドアを叩きながら呼びかける。
「秋子さん！秋子さん！」
しかし中から返事は返ってこない。
思い切ってドアを開けるが、やはり部屋に秋子さんの姿はない。どこだ…？
だが、そのとき微かな音が聞こえてきた…どこだ。歩きながら耳を澄ましてみる。その方向に歩いてゆくと、風呂場に突き当たった。
まさか…。
「秋子さん！」
脱衣所のドアを開けて中にはいるとオレは全身の血が凍った。
「祐一！どうしたの？」
オレに遅れること母さんも風呂場に到着する。
オレは目の前の光景にただ震えるしかできないでいる。そんなオレの肩越しに風呂場の様子を見た母さんが叫んだ。
「秋子！」
確かに秋子さんは風呂場にいた。
バスタブにもたれかかるようにして眠っていた。
そして…床には血で染まったカミソリが…。
そして…水の張ったバスタブの中に入っている左手首から出ている赤い血が、バスタブのお湯を赤く染めていた。
＊ ＊ ＊
幸い発見が早かったので、胃洗浄をかけると胃の中にあった睡眠薬はほとんど取り出すことができた。
おかげで秋子さんは一命を取り留めることができたが、秋子さんのお腹の中の子は………。
………残念ながら助からなかった。
待合所のベンチで秋子さんの回復を待つ時間が凄く辛かった。
「秋子…なんであんな事を…」
何となく分かるような気がする。名雪が…真琴が居なくなって、オレは秋子さんにとって残された最後の家族。だから秋子さんは、オレに全部の愛情をくれたのだ。そうでなければ、学校の行き帰りに、必ず見送ったり出迎えたりはしない。
けど、いずれオレは水瀬家を出る身。だから秋子さんは、お腹の中の子を生き甲斐にしようと思ったのだ。十七年前、秋子さんが旦那さんを失って名雪を生き甲斐にしたときと同じく。
しかし…その子は実の甥の子。秋子さんは悩んだと思う。普段飲まない酒を飲むくらいに。しかし、考えついた結論がこれなのであろう。
「意識が戻りました」
当直医がオレ達に秋子さんの回復を知らせた。
オレ達はあわてて病室にはいる。
「秋子さん、大丈夫!?」
「秋子！」
しかし、オレ達が声をかけても秋子さんは、窓の外を見ている。そして、オレ達の方に向くと、また窓の外を見続けていた。
一体、どうなって居るんだよ。
「秋子…さん？」
だが、オレと母さんが何度も呼んでも秋子さんは反応しない。無視しているとも違う。オレ達が困惑していると当直医が詰め所に来るよう持ちかけたので、オレ達は後を付いていった。
「患者さんの意識が戻ったのは良いのですが、さっきからああなのです。まるで、心ここにあらずと言った感じで」
「もしよろしければ、患者さんの最近の様子を話していただけませんか？」
少しためらいもしたが、名雪が死んでから昨日までの出来事をオレ達は医者に話した。むろんオレと秋子さんが関係を持ったことも…だ。医者も考え込んでいるが、なぜ、こうなってしまったのかの原因を特定できない。
そう言えば、秋子さん…お腹の中の子のこと知っているのかな？
「先生…秋子さん、お腹の中の子は助からなかったって知って居るんですか？」
「えっと…確か胃洗浄後の検査で分かったから、意識がもうろうとしているとはいえ、多分聞いていたと思う。なぁ…名倉君。だれか患者にその事を告げたかい？」
「えっと…確か高槻先生が話したと思います。私も患者さんがその事に頷いているの見てましたから…」
これだ。
お腹の中の子と一緒にいられる場所、そして名雪と真琴と一緒にいられる場所に向かったのに行けなかった秋子さん。
それでも母子両方とも助かったのなら問題はなかったのかもしれない。しかし、秋子さんだけが助かってしまったのが悲劇を呼んでしまった。
お腹のなかの子と死ねなかったショック、そして…自分が殺してしまったショック…これが秋子さんの心を壊したのだ。
「母さん。やっぱりオレ日本に残るよ…」
「祐一…」
「だって、こんな秋子さんを一人にはしておけない。秋子さんは、オレの大切な家族だから」
――エピローグ――
高校を卒業したオレは、医療に関するボランティア関係の会社に就職した。もちろん病に苦しむ人たちのために何かしてあげたいと思ったからだ。
そして…秋子さんの笑顔を取り戻すために。
今日も仕事が終わってから、秋子さんの元に行く。
「秋子さん、遅くなってごめん」
いつも通りオレの声に秋子さんは振り向くだけだ。
でも、最近は手を握るとわずかだけど、握り返してくるようになった。
オレは秋子さんの笑顔を取り戻してみせる。
たとえ、何年かかろうとも必ず。
【終】