その日の目覚めは最低だった。当たり前だ。理由はどうであれ、客観的に見ればオレが秋子さんに無理矢理Ｈしたことになるのだから。
怒ってくれれば良かった。
罵ってくれれば良かった。
しかし、黙って出て行かれたのは非常に辛かった。
そして「名雪の代わりの人形じゃない」この言葉が痛かった。
いつまでも寝ていても仕方がない。オレはこれを覚悟して名雪と最後のＨをしたのだから。
着替えて洗面所に向かう。冷たい水で顔を洗っても気が重い。だが、同じ家に住んでいる以上顔を合わせないわけにはゆかない。
「おはようございます」
ちらりと上目遣いのような感じで、ダイニングを見ると秋子さんが朝食を作っていた。しかし返事はなかった。ダイニングの入口まで来ると、秋子さんはオレを横目で見る。しかし、すぐ視線を戻してしまう。
「おはようございます。座っていてください」
うわ…声に感情がないよ。怒っているなんてモンじゃないな。そりゃそうだろうな。夜中に目が覚めてみれば体を奪われていたんだからな。それもよりにもよって、娘の恋人であり血のつながった甥が相手なのだから、秋子さんの怒りはもっともだ。
なんか針のむしろに座らされている気分で、全然食事が喉を通らない。
食事が終わっても、どうにも居心地の悪さを感じたオレは買い物にかこつけて家から出てしまった。しかし、公園で少しのんびりしていたが、このままでは逃げてばかりであることに気づいた。けど、どうやって秋子さんに昨日のことを説明すれば良いんだろう。
いや、それどころか秋子さんから、昨日のことが親父達に知れたら勘当ものだな。
仕方がない。さっさと帰って秋子さんから引導を渡して貰うか。ブランコから飛び降りると、オレは水瀬家へと歩き出した。
「ただ今帰りました」
オレの声が聞こえると、秋子さんがリビングから出てきた。
そしてオレの前まで来ると、今朝ほどの感情のない声でオレに話しかけてきた。
「お話があります。ちょっとリビングまで宜しいでしょうか？」
「はい」
オレは素直に秋子さんの言葉に従った。おそらく昨日のことだろう。
リビングに入ると、オレと秋子さんは向かい合わせにソファに座る。そして秋子さんから話を切りだしてくるのを待った。
「祐一さん、お部屋を掃除していたら見つけたのですが、これについて話していただけますか？」
秋子さんが出したのは、オレと名雪の名前の入った婚姻届だった。
そう…『名雪』が持ってきた例の婚姻届である。『名雪』との思い出に取っておこうと思ったのだが、どうやら隠し方が甘かったらしい。
まさか名雪が秋子さんに乗り移って持ってました…なんて言えないし。なんて答えて良いか分からず黙っていると、秋子さんは次なる質問をしてきた。
「この名雪の所に押されている印鑑…どうしました？」
えっ？秋子さんの言葉にオレは驚きながら見入る。これって『名雪』が押してきたものだから、オレは知らないぞ。『名雪』が持っているんじゃないのか？
「名雪が持っている印鑑…じゃないんですか？」
オレがとぼけていると思ったのか、秋子さんは軽くため息を付くとこの印鑑の素性について話し始めた。それは思いもしない事であった。
「これはですね…うちの実印であり、名雪でも勝手に使えないんです。ただ、一度だけ印鑑登録を名雪にお願いした時に渡しただけです」
あ…あのバカ。そんな大事なものをこんな事に使いやがって。しかも秋子さんに黙って…か。そうか、だから秋子さんに見つからないうちに処分したがっていたのか。しかし…なんて答えたら良いんだ…。
一向に返事が返ってこないオレのことを秋子さんは黙ってみている。もう気分は叱られて何も言えないでいる子供のようだ。
「祐一さん、私に何か隠していませんか？」
「えっ？」
隠し事？確かに名雪の魂が秋子さんに乗り移ってオレの所に来ることは口止めされていたが、それ以外では無い。秋子さん…気づいた？…いや、気づく以前にそんな常識はずれのことを思うわけがない。
「最初、これは祐一さんの度を超えた行動だろうと思っていました。でもですね…実はこんな手紙が私の部屋にあったのです」
秋子さんは、婚姻届の下に置かれていた手紙をオレの前に差し出した。
「お母さんへ
何から話していいのかわからないや…。
信じられないと思うけど、わたし、お母さんの体の中にいるの。でもお母さんが寝ているときにしか体の中に入れないから、話すことが出来ない。だから、こうして手紙を書いてでしか伝えることが出来ないんだ。
でも…もう今日でお別れ。もう少ししたら、わたしは成仏しなければ行けないから、今のうちに伝えておこうと思って。
三つの御免なさいを言うね。
一つ目…お母さんを疲れさせて御免なさい。わたし…お母さんの体を借りて祐一に会っていた。でも、わたしがお母さんの中にはいると、お母さんの体に負担がかかるの。だから、お母さんが疲れていたのは、わたしのせい。このことは祐一にも口止めお願いしていたの。ごめんなさい。
二つ目…お母さんより先に死んでごめんなさい。もっともっとお母さん達と一緒にいたかった。でもできなくなってしまった。ごめんなさい。
三つ目…今日は、ひょっとすると祐一とＨするかも知れない。もちろんお母さんの体を借りて会いに行っているから、そんなことはできない。
でも、自分の気持ちを拒みきれるかどうかも分からない。
だから、もしもの時になったら、悪いのはわたし。祐一は悪くないから。お願いだから、祐一のことは怒らないでね。わがまま言ってごめんなさい。
ホント…ホントに…たくさん話したいことがあるんだけど、もう時間がないから行くね。
さようなら…お母さん。
名雪」
それは、最後の日に名雪がオレに会いに来る前に書いた手紙であった。
あいつ…こんな手紙を書いていたなんて…。だから秋子さんはオレに隠し事をしていないかどうか聞いたのか…。考えても見れば、名雪の性格からして秋子さんに話さないわけはない。
「この筆跡は間違いなく名雪のものです。祐一さん…」
秋子さんが尋ねるように声をかけてきた。
「はい？」
「名雪は…思い残すことなく逝けましたか？」
「えっ…？」
秋子さんは真剣にオレのこと見つめている。オレも真剣な口調で答えた。
「はい」
秋子さんはしばらくの間無言でいたが、何か吹っ切れたような顔をすると、伏し目がちで微笑みながら二の句を繋いだ。
「あの夜…祐一さんとＨしたのは身も心も名雪だったんでしょうね…」
「え？」
心は分かるけど…身って？まさか秋子さん…。「名雪の代わりの人形じゃない」…これは間違いなくあの時の秋子さんの本心である。どう考えたって甥に体を奪われて平気な叔母などいない。しかし今の秋子さんの言葉は、あの夜のことは自分は関与していない…と言わんばかりの内容だ。
そうか…決してオレとのＨを容認したわけではなく、そう思いこむようにしたんだ。
「ですから、もう、あの夜のことを話すのはやめます」
「秋子さん…」
オレは名雪の優しさ…秋子さんの寛容さに心を打たれて、ただ秋子さんの名前を呼ぶのが精一杯だった。どうやらオレと秋子さんの関係は壊れずに済んだようである。
それからは、オレ達は今まで通りの生活を送っていた。ちょっと変わったところと言えば、秋子さんが朝と帰りには必ず見送りと出迎えてをしてくれることであった。だからといってオレと秋子さんの間に何かあったというわけではない。
あくまで家族として接してくれているのは前と同じだ。ただ…秋子さんの人恋しい性格がそうさせているのかも知れない。
あの夜から二ヶ月くらい経過したある日のことだった…。
「ただ今帰りました…」
「祐一さん。お帰りな…うっ！」
いつも通り秋子さんが笑顔で向かえてくれる…と思いきや、口に手を当て洗面所に向かって走っていったのだ。思わずオレも一緒に洗面所に向かう。
「うぅっ…」
オレが洗面所に入ると、秋子さんは洗面台に向かって吐いていた。
「秋子さん！大丈夫ですか」
かなりひどい嘔吐らしく、オレが背中をさすっても一向に収まる気配がない。秋子さん、どうしたんだ…。これは…救急車を呼ぶ必要があるか。そんなオレの心情を察してか、収まりかけた秋子さんは、苦しみながらもオレに声をかけてきた。
「大丈夫…ですから」
ようやく吐き終わった秋子さんは近くにあったタオルで口を拭くと、力無く崩れ落ちた。慌てて抱きかかえると、急に吐いたせいなのか秋子さんは真っ白な顔をしていた。
とりあえずは、秋子さんの部屋に連れてゆくしかない。ベッドに寝せると、秋子さんは弱々しくオレに話しかけてくる。
「すみません。少し寝てれば治ると思いますから…」
しかし、オレにはどうしても心の中に生まれた小さな不安をぬぐい去ることが出来なかった。
翌日になっても、秋子さんは具合が悪そうな顔をしていた。けど、不思議と薬を飲もうとはしないでいる。なんでだろう？
とりあえず病院に行くよう話すと、すこしためらった後頷いて答えた。オレはちゃんと病院に行ってくれるかどうか心配だったので、学校に行くと見せかけて適当なところに隠れて秋子さんの後を付けることにした。家の支度を終わった頃を見計らって玄関に注目する。
予想通り、家の支度を終えた秋子さんは家から出てきて歩き出した。尾行に気づかれないよう距離を置いて秋子さんの後を付いてゆく。
すると秋子さんは思いもしないところに進路を変更した。交差点の先に病院が見えているのに、そちらには行かず、別の建物の方へと向かったのである。
そして…その建物の看板を見たオレは驚きを隠せなかった。なぜならそれは産婦人科の看板だったのだから。秋子さん…まさか！いや…落ち着け祐一。産婦人科に行ったからと言って必ずしも妊娠しているとは限らない。
だが、しばらくして病院から出てきた秋子さんの表情は今朝以上に沈んでいた。病院を出た秋子さんは家へは帰らず公園に向かっていた。オレも秋子さんの後について行く。
秋子さんは手近なベンチに座ると、肩を落として深いため息を付いた。オレは秋子さんの近くまで来ていたが、声をかけることが出来なかった。オレが後を付けていることに気が付いていないのか秋子さんは独り言を呟く。
「はぁ…。よりにもよって祐一さんの子供を身ごもってしまうなんて…」
昨晩の不安が的中した。秋子さんが妊娠したのは、あの名雪との最後の夜の出来事が原因だからだ。ショックのあまり、手に持っていた鞄を落としてしまった。
「えっ？」
その音に秋子さんは驚いた表情で振り向く。
「祐一さん…どうしてここに？」
【第十二話終わり】