結局、秋子さんは夕御飯時まで寝ていた…つまり、午前中からずっと寝ていたことになる。今までの秋子さんからは決して考えられないことだ。秋子さん、オレの昼飯を作らなかったことにひどく恐縮していたけど、そんなのはどうでもいいから、少しは自分の体のことを考えて欲しいよ。
オレは夕食後、秋子さんが制するのも構わず無理矢理後かたづけを始めた。こうでもしないと、秋子さんは、どんどん自分の負担を増やしてしまうからだ。でも、幾らオレが言葉で言っても、秋子さんは決して引き下がろうとしない。
「祐一さん、私がしますから…」
「いいえ！秋子さんこそ休んでください」
「あれだけ寝たので大丈夫ですから…」
「ダメです！」
「あっ…」
オレは秋子さんに引かれる手を少し強く引っ張った。急に手を引かれたので秋子さんはバランスを崩したのだが、いつもの秋子さんなら足を一歩出すだけで踏みとどまれるのに、それが出来ずオレの方に倒れ込んできてしまったのである。
オレの体にしがみついてバランスを取り直した秋子さんは、あわててオレから離れる。
「祐一さん…すみません」
あれだけ寝ていたのに体がふらついてしまうと言うことは疲れがとれていない事になる。名雪の乗り移りの影響がかなり負担になっているのだろう。
オレは食器を洗う手を止めて秋子さんに声をかけた。
「秋子さん…あれだけ寝ていても今のように体がふらつくと言うことは、それだけ疲れが溜まっている証拠です。あとはオレに任せてくれませんか？」
言葉では誤魔化せても、ふらつく体を…それも誤魔化しようのないところまで来ているのをオレに諭された秋子さんは何も言うことが出来なくなり、後かたづけをオレに任せると風呂に入って早々に就寝についてしまった。
オレも後かたづけを終えると風呂に入って自分の部屋に戻ることにした。とは言っても、部屋に戻ったって何もすることはない。ベッドの上で横になり、ぼーっとしているだけだ。
この時間だとそろそろ…かな。
コンコン…
ドアをノックする音。
「あいてますよ」
『名雪』の来る時間であるが、秋子さんかもしれないので一応敬語で答えた。
「祐一、わたし…。入っていい？」
だがドアの外にいるのは『名雪』だった。そういえば秋子さん、さっき早めに休むって言っていたよな。
「おぅ…」
ドアが開くと、申し訳なさそうに『名雪』が立っていた。
オレはベッドから起きあがると縁に腰をかけて『名雪』の事を呼び寄せる。
「ほら。立っていないで、こっちに来いよ」
「うんっ」
『名雪』は笑顔でオレの隣に座る。それと同時に三つ編みをほどいて軽くウェーブのかかった長い髪からミント系のシャンプーの香りが漂ってきた。名雪はフルーツ系の香りのシャンプーを使っていたはず。幾ら『名雪』に会えているとはいえ、やはり隣にいるのは秋子さんであることを再認識させられる。
そういえば『名雪』って昼間はどうしているんだろう？
「なぁ…名雪」
「なに？」
「おまえって、昼間はどうしているんだ？」
「…寝てる…と思う」
なんだそりゃ。と言うか自分がどうなっているのか、覚えていないのかな？
「意味がわからんぞ…」
「だって…初めてわたしの意識があったときにはお通夜の時間だったし、昨日祐一に会いに来たあと寝てから次に起きたときもお母さんは寝ていたし、それまでの事は覚えていないから、きっと夜の少しの間だけ起きて、あとは寝て居るんだと思う…」
…それか、本来なら昼間も意識があるはずなのが、秋子さんの体に入った影響で名雪も疲れて寝てしまっているのか…。きっとそんなところであろう。
そんな他愛もない話をしていると、不意に『名雪』は曇った表情で俯いた。なにか思い詰めたような表情に似ている。そのわけを聞こうとするより先に『名雪』の方からオレに声をかけてきた。
「祐一…」
「どうした？」
「お母さん、ちゃんとご飯食べてる？ちゃんと休んでいる？」
「何でそんなことを聞くんだ…」
「お母さん…疲れているみたいだから」
確か、先ほどの『名雪』の話では昼間は寝ているんだよな。なのに何で秋子さんが疲れているというのを知っているんだ？
「なんでそう思う？」
「昨日から思っていたんだけど、お母さんの体の中に入った時…すごく体がだるかったから」
二人の間に沈黙が続く。きっと『名雪』は秋子さんの体の中に入ると、秋子さんの体調とも同調してしまうのだろう。そこから秋子さんの体の様子をつかんだと思われる。
「昨日のだるさは一昨日の初めての乗り移りの影響だと思うけど、今日、こんなに体が怠いのは、それに加えて昨日ギリギリまでお母さんの中に居たせいだと思う。わたし…もう、明日から来ない方がいいのかも」
「な…なんでだよ？」
「だって、わたしがお母さんの体を借りて祐一のところに会いに来れば、その反動でお母さん疲れてしまうから。わたし…お母さんに迷惑かけたくないよ…。だけど…」
「だけど？」
「祐一に会いたいんだよ…。祐一との思い出、出来るだけ欲しいから。わたし、どうすればいいの？」
少し困った顔で…瞳を潤ませながら…泣きそうな顔をしながら…上目遣いにオレのことを見る『名雪』。『名雪』も複雑な気分だろうな…秋子さんの体を借りればオレに会いに来ることが出来るけど、そうすれば秋子さんの体に負担をかけてしまう。
秋子さんのことを人一倍想っている『名雪』にとっては辛いことだろう。なんか少し前に流行った究極の選択だな…まるで。
でも、この事を秋子さんが知ったとしたら、秋子さんがどう言うかは一つしかない。『名雪』のためなら自分が疲れるのも厭わないはずである。
「もし…」
「？」
「名雪が秋子さんの立場だったらどうする？」
「それは、わたしが出来ることなら何でもして上げるよ…」
「秋子さんも、きっとそう言うと思うぞ」
「だから、余計にお母さんに無理はさせたくないんだよ…お母さん、ずっと家や家族のことで一人で頑張ってきたんだから」
「名雪だって一緒に頑張ったじゃないか」
「わたしなんて…お母さんの頑張りに比べれば」
オレは名雪達の親子の絆の強さ…愛情の深さを改めて感じていた。こんなにすばらしい親子がなんで死に別れなければいけないんだよ…。
「そんなことない。お前は立派だった。だから、素直に秋子さんに甘えろ。その分オレが秋子さんのことをフォローしてやるから…名雪には及ばないかもしれないけど」
「ううん、そう言ってくれると嬉しい。祐一にも甘えるね…お母さんの力になって上げて。わたしじゃもう、お母さんの力になれないから。そして祐一にお願いがあるよ」
「なんだ」
「このこと…お母さんには言わないでね。この事を知ったら、お母さん絶対に無理をすると思うから」
「分かった…約束する」
「わたし…今日はもう寝るね。あまり遅くまで起きていると、お母さんのからだに負担をかけるから…」
「分かった…部屋まで送るよ」
「大丈夫。一人でいけるから…」
『名雪』はそう言って一人で戻ろうとしたが、『名雪』に会いたいのはオレだって同じだ。だからオレも『名雪』と一緒に秋子さんの部屋へ向かうのは当然のことだ。一瞬躊躇ったが『名雪』の肩を抱いてオレの気持ちを告げた。
「バカ…オレだって名雪と一緒にいたいんだ」
「祐一…ありがと」
オレは『名雪』の肩を抱きながら立ち上がって部屋を出た。二人で並んで歩くには狭い階段だけど、それでもオレは肩を抱くのはやめずに『名雪』の隣にいた。
「祐一、ありがとう。お休みなさい」
「あぁ…お休み」
『名雪』が秋子さんの部屋の中に入るのを見届けると、オレはしばらく部屋の前にいて『名雪』の言葉を思い出していた。そして、オレの気持ちに置き換えてみる。秋子さんの体に乗り移ることで『名雪』はオレに会いに来ることが出来る。しかし、その代償として『名雪』と秋子さんの体に負担をかけることになる。
今朝の疲れている秋子さんの顔を見れば、たとえ秋子さんが了承しても申し訳ない気持ちでいっぱいだ。だからといって『名雪』に来るなとも言えない…会えるのなら会いたいと言うのが正直な気持ちだから…。
ふぅ…まさに究極の選択だな。
それにしても…オレは先ほど『名雪』の肩を抱いたときの事を思い出さずにはいられなかった。隣に座ってたときから思っていたことだけど、秋子さんって面長な印象があるから名雪より大きい印象があったが実際に隣に座ると名雪と同じくらいの体つきをしていたんだよな。
それが良く分かったのは肩を抱いたときだ。名雪と同じか…下手をすると運動をしている分、名雪のほうが肩幅が広いかもしれない。秋子さんはあんな小さい体で水瀬家を支えていると言うことになる。名雪が秋子さんのことを心配して当然だ。
名雪のように上手に出来ないけど、それでも秋子さんのために何かしなければいけないと思った。
【第七話終わり】