ピンポーン

　晩飯の支度をしているときに、呼び出し音がなった。
　こんな時間に来ると言えば妙子ぐらいであるが、妙子がこの時間に来るときは、決まって材料を買い忘れたとかそんな理由である。だが、妙子とはさっきスーパーで会っているから、妙子の可能性は薄い。

　……………

　どうも今朝から起きること、全てにろくな事がない。オレは一応警戒して、いきなりドアは開けず、まず声をかけてみた。

「はい、どちら様ですか？」
「夜分にすみません、私、保坂美由紀と申します。」

　どうやら外にいるのは保坂と名乗る女性のようだ。でも、保坂なんて女の子に知り合いは居ない。

「あのー、どちらの保坂さんで？」
「あ、あの、先ほどスーパーでお会いした…」

　スーパーで会った？しばし考えるが思い付かない。スーパーであった人と言えば妙子と、今朝、電車でオレを痴漢と間違えたあの女の子だけだ。ん？まてよ、ひょっとして…あの子なのか？

「ひょっとして、今朝…中央線で会った…キミ？」
「あ…は、はい。」

　おいおい、家まで押し掛けてきたよ…この子。そんなにオレが憎い…か。まぁ無理もないか。
　でも、何でオレの家を知って居るんだ？あ…妙子か。ったく…。あいつも余計なことばかりいいやがって…。ホント、あいつが絡むとロクな事がねぇな。

　とりあえずは、ドアにチェーンをかけて少しだけ開ける。
　どうやら買い物帰りらしく、買い物袋を手に持っていた。

「えっと、わざわざ家まで何のようかな？」
「あ…あの、今朝のことでお話が。」

　やっぱりね。もう、どうにでもしてくれ。オレは半ばヤケ気味に答えた。

「わかった、警察に行けばいいんでしょ。」

　オレは無実なんだ。何もやましいことはしていないから、恐れることはない。
　チェーンを外して外へ出ようとした。

「あ、いえ、違うんです。」

　違う？何が？

「違うって？」
「今朝あなたを痴漢にしたことが…」

クスクス…
いやぁねぇ…

　オレ達の会話を聞いている道行く人の声が色々聞こえる。こりゃ下手すると翌日はこの近所の間で『噂の人間』になりかねないな。

「で…その…あなたを痴漢に間違えたことと、そのお詫びのことを、あなたの彼女に相談したら『夕食をつくってあげて』と言われたので、彼女がいるのに厚かましかったんですが、ぜひお詫びに…と申したところ了解を得たので伺いました。」

　彼女…って誰のこと？

「彼女って、誰？」
「スーパーで会ったおさげの女性は違うんですか？凄く親しそうにしていましたから、あなたの彼女と思っていたのですが…」

　おさげの女の子…って、妙子のことか！

「妙子のこと？ちがうちがう。アイツは単なる幼なじみで、ちゃんと別に彼氏がいるの。」
「そうなんですか？で、あの…ご迷惑でしたか？」

　まぁ、痴漢疑惑が晴れたから、もう迷惑じゃないけどね…。でも、なんか話がうますぎるなぁ…。まさか、このあと強面の人が乱入して『よくもオレの…』ってな展開にならねぇだろうな。そんなのヤダぞ。

「ところで…キミ…ひとり…だよね？」
「は？はい？………そうですけど？」
「あ、いや、いいんだ。まぁ、このまま立ち話も何だから、散らかっているけど上がってよ。」

　オレは一通り周りを確認した後、ドアを開けて彼女を中に入れた。

「お、おじゃまします」
「適当に座ってて。今お茶入れるから」

　台所へ向かい、やかんに水を入れコンロにかける。これくらいのことなら左手で出来る。
　お茶は何にしようかな？ダージリンティーでいいか。

「で、なぜオレが痴漢じゃないってわかったの？」
「実はあなたの手を掴んであなたに向かって叫んだ後、右手でまだ…その…む…胸を触られていたのに気付いたとき、あなたが痴漢じゃないってことが判ったんです。でも、間違えてしまったショックと、私のあられもない格好に気付いたとき、謝るよりも恥ずかしさの方で舞い上がってしまい、思わずあの場所から逃げてしまったんです。」

　なーるほどね、あの時の「あっ」と言う表情はこれの事だったんだ。

「本当に、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。間違っただけならまだしも、周囲の人に痴漢と思わせてしまったり、そんな怪我をさせてしまってなんとお詫びして良いのやら…」

　そう言うと彼女はうつむいてしまった。かなり思い詰めているな…。

「まっ、気にしていないと言えばウソになるけど、二人の間でちゃんと事実確認が行われていれば、それで良いんじゃないかい？少なくとも、この怪我のことで君を恨んだりはしてないよ。」
「本当…ですか？」
「うん。」
「よかったぁ」

　彼女の問いに答えると、ほっとした感じで微笑んだ。
　へぇ…。黒縁メガネを掛けているから、一見真面目で堅そうなタイプに見えたけど、この子の笑った顔って結構可愛いじゃん。

「ところで、もう夕御飯は済ませましたか？」
「いや、生憎包丁が持てなくてね…。まだ食べていないんだ」
「あ…ごめんなさい…私のせいで…」

　しまった。余計なことを言ってしまった。

「ま、まあ、じゃぁ、お言葉に甘えて何かつくって貰おうかな？」
「ハイ！一応カレーの準備をしてきたのですが…。これだと余っても冷凍できますし…。」

　へぇ…結構家庭的な子なんだな。

「それじゃ、台所借りますね」

　一通りの道具を揃えてあげると、彼女は手慣れた感じでカレーを作り始めた。
　時折鼻歌も聞こえてくる。それを聞いていると、こんな可愛い子に料理をつくってもらえるオレって幸せ者だなぁ…と思いもしたが、オレに対しては、あくまでお詫びの一環であることを再認識したときには、不覚にも、いるであろう彼女の彼氏がうらやましく感じてしまった。

　でも……幾ら今朝のお詫びとはいえ、夜分に知らない男性の部屋に来るなんてちょっと無防備…っていうか無謀な事じゃないのか？

「えっと、保坂さん…だっけ？」
「はい？」
「こんな夜分に、知らない男性の部屋に上がるってのは、ちょっと無防備すぎると思うけど…？」
「あ…私もちょっとそれを思ってたのですが、お下げの方…妙子さん…ですか？その方が『今日の怪我でそんなこと出来ないだろうし、それ以前に直ちゃんに女押し倒す度胸なんてない。人畜無害な男だから大丈夫。まぁ万が一少しでもそんな気配を見せようとしたら、腕やお腹などの怪我した部分を思いっきり蹴っ飛ばして逃げればいい』って教えてくださいましたので。それに…」
「それに？」
「人の親切に対して疑いの目を持つってことはしたくないので…」

　なーるほどね。『人の親切を疑いたくない』ってのはオレも常に思ってるから気持ちは分かる。疑心暗鬼が過ぎれば自分の心がすさんで行くのが解るからね。でも人が良すぎるぞ。まぁ、それが彼女の人徳なのかもしれないが。

「それは解ったけど、こんな事をして貰ったら彼氏に悪いなぁ…」
「彼氏なんて……いません………」

　リズミカルに響いていた包丁の音が急に遅くなった。やべぇ、触れちゃいけないことだったかな？

「あ…ゴメン…」
「いえ…気になさらないで下さい。」

　とは言うものの、二人の間には気まずい雰囲気が漂っている。
　オレは黙ってカレーができるのを待つことにした。
　それからしばらくするとカレーの香りがしてくる。やっぱ、夕食時のカレーの匂いって不思議と食欲がわくよな。

「お待たせしましたぁ……きゃっ！」

　叫び声がしたので振り向いてみると、彼女はなにかに躓いたらしく、オレの方へと転んできた。と、同時にオレの方に向かって飛んでくる鍋も視界に入った。

「おわっ！」

　ドン！

　オレは奇跡的にも鍋の取っ手を掴むことが出来たのだが、それで両手がふさがってしまい、オレの方に転がってくる彼女を受け止めることが出来ず、彼女の下敷きになってしまった。

「あいたたたた…。いったぁい〜」

　むにゅ…

　なんだ、この頬に当たる柔らかな感触は…？二人の位置関係から察すると…これは彼女の胸？そして微かに香ってくる石鹸の香り…。

　だぁ！なんという状況。ラッキー…じゃねぇ…。でも…

　柔らかいもので包まれるのは気持ちがいい。そういう風に感じられるのは、ちゃんと呼吸が出来るときの話だ。今は、胸に触れていると言うより、押しつぶされていると言った方が正しい。

「んん〜〜！」

　バンバン！

　確かに最初は柔らかな感触で気持ちよかった…。でも、だんだん時間が経ってくると、息苦しさが上回ってきた。こういう状況で死ねるのは男としては最高か…。って、いかんいかん。何を考えているんだかオレは。このままじゃマジに窒息してしまう。

　手には鍋を持っているので動かせない。オレは唯一動かせる足をジタバタさせた。

「あ、す…済みません。大丈夫で……。あっ！」

　ようやく彼女も自分の胸がオレの顔を押しつけている状態に気付いたらしい。

「きゃっ！」

　彼女は顔を赤くしながら、オレから離れる。
　ぷはー、とりあえず息が出来た。あー何とも良か…ちがう。酷い目にあった。
　ふと彼女の方を見ると、真っ赤な顔をして両手で胸を抱え込んでいる。オレはなんて声を掛けて良いか判らなかった。

　どれくらいの間だったろう。二人の間には沈黙しかなかった。とにかくこの気まずい雰囲気をなんとかしないと…。

『あ、あの…』
「あ、あの…、その、後は…ご飯が炊ければＯＫですから…、えっと…なんだっけ。……あ、お口に合うかどうかは判りませんが、よろしければ食べて下さい。余ったら冷凍すればＯＫです。そ…それじゃ、失礼します！」

　バタン！

　早口でまくし立てたと同時に飛び出すようにしてオレの部屋を後にした彼女。
　そして一人残された静かな部屋には、炊飯ジャーから炊飯終了のブザーの音がむなしく響いた。

　しゃーない。せっかく作ってくれたんだし、飯でも食うか。と、その前に鍋をテーブルにおかないとな…。あれ？なんで皿が２枚あるんだ？
　鍋をテーブルの上に置こうとしたら、皿が２枚あることに気付いた。オレ一人なら１枚で良いはず…まさか一緒に…？。

　彼女の作ってくれたカレーは実に美味しかった。これで彼女が一緒だともっと美味しく感じられたろう。でも先ほどのアクシデントにより、オレは一人で食べざるを得なかった。

　後かたづけをした後ＴＶをボーっと見ていたのだが、ＴＶの内容は全く目に入らず、思い出されるのは、なぜか先ほどの彼女の胸の感触だけだった。
　いかん！オレは何を考えているんだ。首を振って雑念を振り払おうとするが、一向に消える気配がない。

　だぁぁぁぁぁっ！こう言うときには寝るに限る！

　オレは頭から布団をかぶって寝ることにした…。が…決して消え去ることのないあの柔らかな感触と、さらに甦ってくる石鹸の香り…。

　だめだ…眠れねぇ…
　結局、一睡もすることなく雀のモーニングコールを聞いてしまったのであった。